ムーンエイジ・デイドリーム【映画視聴感想】
こんにちは、美波です。
先日、ムーンエイジ・デイドリームという映画を観てきました。
伝説的なロックスターである、デビッド・ボウイのミュージックシーンや遍歴を追体験できる、自伝的な音楽映画です。
音質にこだわった制作であるため、公開劇場はごく限られている印象ですが、これから観ようかと思っている方の参考になればということで、感想を書いてみたいと思います。
今回の映画は、母親と一緒に視聴してきました。デビッド・ボウイの一部の音楽だけを知っている筆者と、ロックスターとして全盛期のデビッド・ボウイをリアルタイムで追いかけていた母親のそれぞれの感想を書きたいと思いますので、ぜひ参考にしてみて下さい。
私の感想
まず、私の感想です。私は母親の影響で小さい頃から洋楽を聴いていましたが、基本的には70年代〜80年代の有名な曲を広く浅く聴くスタイルです。
当然、ロック史において無視できない存在であるデビッド・ボウイも知っていましたが、ジギースターダストに代表される有名曲を散漫的に聴く程度で、それほど深い知識はありません。
同様に、デビッド・ボウイの「ひととなり」についても、様々なキャラクターを演じ、カルト的な人気を博した、というビジネスシーンの活躍を知るのみで、彼自身の性格や思想などは知らない、という状態です。
そんな私の今作を観た直後の感想というのは、率直なところ「凄く断片的で、制作者の伝えたいことが分からない」でした。
本作の構成は、よくある第三者へのインタビューなどは一切なく、ロックスターとしての彼のライブ風景やレコーディング風景を挟みつつ、彼自身のインタビューやモノローグによってシーンが切り替わって行く、というものです。
そのため、物語に明確な「繋ぎ」がなく、時代ごとの彼の音楽と思想が、飛び石のようにハイライトされており、全編を通してひとつのストーリーとして捉えるのは難しい印象です。
もちろん、ロックスターとしての彼のライブシーンは圧巻の一言で、彼がなぜ時代を代表するミュージシャンたり得たのかは、この映画からも存分に感じられると思います。が、音楽映画として観ようとすると、本作品におけるライブの部分は短すぎる気もします。
なので、彼自身や彼の音楽の一部しか知らない私からすれば、本作をもって「デビッド・ボウイを満喫できた」とは言えない印象でした。
母親の感想
一方、デビッド・ボウイを追いかけ、同じ時代を生きてきた母の感想は、私の想像よりも熱いものでした。
曰く「観たかったデビッド・ボウイが観れて嬉しかった。時代における彼の活躍が思い出されて、思わず泣きそうになった。」と、非常に高評価でした。
私の率直な感想は上に書いたようなものだったため、もしかして母は退屈したのではないか、と心配していたのですが、予想に反してすこぶる高評価だったことに驚きました。
先ほど私は自分の感想の中で「物語の繋ぎが足りない」と言いましたが、彼と同じ時代を生きた母にとっては、シーンの行間を埋める数々の思い出があったのでしょう。貴重なライブ映像等による目新しさと、同じ時代を知っているがゆえの懐かしさと。それが高評価の理由だったのかもしれません。
徐々に込み上がってくるカタルシス
さて、そんなこんなで大満足とはいかなかった映画鑑賞。ですが、意外にも視聴後しばらく思考しているうちに、何やら気持ちが満たされるような、不思議な味わいが広がっていくのを感じました。
作中で、デビッド・ボウイが自身の生い立ちを振り返るシーンがあります。その中で、自分の身内に精神疾患を抱えた方がいたことを告白しています。若い時代のデビッド・ボウイは、神経質な自身の行く末に、精神疾患という恐怖を重ねてしまっていたことが暗示されていたように思いました。
その絶望にも似た狂気を心に抱えながら。彼は見ていて泣きそうになるくらい真摯にその狂気と向き合います。
生来の本質と狂気との揺り戻しの中で、彼は自身を「世間の異物」としてキャラクター化します。奇抜なファッションに身を包み、異星人として振る舞い、ぶっ飛んだ世界観に圧倒的な歌唱力・作曲センスを引っ提げて世間へ躍り出ました。
売れるための安易さではない、本気の葛藤の末の真剣さが彼自身のキャラクターに濃厚さを持たせ、同じく何らかの狂気を抱えた人達の心を掴みました。そうして誕生したのがロックスターとしてのデビッド・ボウイだったのではないか、と思うのです。
「誰かに深く刺さるんじゃないかな」
視聴後、映像や彼自身の言葉の断片を思い出しているうちに、私は最近見た「ぼっち・ざ・ろっく」というアニメの台詞を思い出していました。(アニメを絡める事に不快感を感じた方には申し訳ありません。ワンフレーズだけ引用させて下さい。)
そのアニメの中で、1人のキャラクターの「少ないかも知れないけど、誰かに深く刺さるんじゃないかな」という発言があります。
デビッド・ボウイの生きた時代は、今よりももっと異質なものに寛容ではない時代でした。そんな時代において、自身の狂気と真摯に向き合い創り上げた「異質なロックスター像」は、同じく心に狂気を抱えた人達の心に深く刺さりました。
隠すべき異質を敢えて曝け出し、なのにカッコイイ彼の存在は、狂気を抱えた人々にとって、自分のカルマを背負ってくれるヒーローの様に映ったかも知れません。
一見馬鹿げたキャラクターに息を呑むほどに真剣だったからこそ、一笑に付すことのできない迫力があり、その真摯さが同じ狂気を抱えた人達に「深く刺さった」のだなぁ、これがカルトスターなどと言われるほどの熱狂的なファンを獲得した理由なのだなぁ、と考える様になりました。
彼とファンの暖かな世界
そして、今の世界というのは、実は彼がカルトスターとして君臨した時代と似通った部分があると思うのです。
確かに以前と比べて、世界は異質に寛容になりました。でも、あの時代にはない「生きづらさ」の様なものが、世間に渦巻いているように感じることがあります。
種類は違えど、大小の差はあれど、人々は以前よりも明確に心に狂気を抱えているような気がします。そんな閉塞感を感じたときに、私は今回の映画にデビッド・ボウイを再発見しました。
狂気に悩む人がいて、それを背負ってくれるような、デビッド・ボウイというヒーローが現れて。生きづらい世の中で、彼を取り巻くファンには確かに何かしらの別の世界があったのだと思います。
そのうちに彼はキャラクターを脱却し、デビッド・ボウイ自身として音楽活動に取り組みます。彼にカルマを背負うヒーロー像を重ねていたかつてのファンにとって、それはある意味裏切りのように映ったかもしれません。
なぜデビッド・ボウイが架空のキャラクターを脱ぎ捨てたのかは私には分かりません。成功により、自身の狂気が綻んだのかもしれませんし、愛すべき配偶者との出会いよって救われた結果なのかもしれません。ですが、彼は自分の死期を悟った時、長らく離れていた音楽シーンに颯爽と現れ、また我々に音楽を届けてくれました。彼を慕っていたファンの在り方が、そして新作を届けることでファンに応えたデビッド・ボウイの在り方が、その関係性が尊くて、何か生きづらいこの世界における安息地に触れたような、そんな暖かな感情が湧き上がってくるのです。
ウィキペディアなんかを見ていると、彼のビジネスにおける成功のみが記されています。なるほど、彼は架空のキャラクターを演じる事で、上手くやったんだな、と、そんな印象が先行します。
ですが、このムーンエイジ・デイドリームを観ることで、そのサクセスストーリーに彼自身の葛藤や迫力が肉付けされ、より彼と彼の時代に肉薄できる様な気がします。その結果、今の時代を生き抜くうえで、デビッド・ボウイという異質で異端で、だからこそ暖かいひとつの拠り所に出会えるかもしれない、そんな思考のきっかけが得られる映画ではないかな、と言うのが、視聴後しばらくしての私の感想になります。
「思考する楽しさ」のきっかけになるかも
ということで、稚拙ながら私の感想でした。
デビッド・ボウイの往年のファンからすれば浅い感想かなぁ、と思いながら、あえて総括するならば「思考する楽しさ」のきっかけとなりえる作品だったのではないか、と思います。
どうして彼はキャラクターを演じたんだろう、どうして彼は仏教的な思考に身を置いたのだろう。時代だろうか、戦略だろうか。逃げていたのか、気取っていたのか。彼の言葉だけで紡がれたこの映画だからこそ、全編を通して彼と自分が対話しているような新鮮さがあります。
人を選ぶ映画であることは否めませんが、自分の心に何かしらの説明できない悩みを抱えているような方は、もしかしたらその悩みの輪郭を認識するきっかけになるかもしれませんよ。
本日はここまでです。ここまでお読みいただきありがとうございました。